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2008年05月04日

南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~母系社会の変容と崩壊

『南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~ヒンドゥー父系社会の中の母系社会』に続き、ナーヤルの母系社会のの変容・崩壊過程、その背景に迫ってみます。

アーリア人:ナンブーディリを頂点とする身分序列による私権社会体制の中で、数世紀にわたって機能してきたドラヴィド人:ナーヤルの<母系社会>は、イギリス支配下で大きく動揺し、最終的にインド独立後、1976年の「ケーララ合同家族制度(廃止)法」によって法的には消滅しました。

18世紀の終わりから他のインド同様ケーララが植民地としてイギリス支配下に入ると、ナーヤル<母系社会>を取り巻く状況は大きく変化しはじめます。
  ・政治的変化によって生じた急激な人口増加
  ・市場経済の導入による収入の増大
  ・ギリスが導入した近代的な司法制度により、サンバンダム婚(妻問い婚)は正式な結婚から除外される
  ・女性の「貞節」を重んじる西洋価値観の流入(逆に開かれた性に対する否定意識の発現)
  ・「核家族」という新しい家族像の浸透
など。

それらにより、ナーヤルの母系大家族:タラワードがどのように変容し崩壊していったのか?

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2008年05月03日

南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~ヒンドゥー父系社会の中の母系社会

『南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~南インドの巨石文化』に続き、いよいよナーヤルの母系社会に迫っています。

ナヤールの土地、ケーララは、南インドの西海岸、東を山脈によって他のインドから切り離された、南北に長くのびた土地で、おおよそ現在のケーララに該当すします。

India-kerala-labelled-green-grey.png

そのケーララにアーリア人:ナンブーディリ・ブラーミン(バラモン)が本格的に定住しはじめたのが6世紀頃。それ以前には、ナーヤルの多くはすでに王族または戦士として社会の上層部を占めていましたが、ケーララ全体の統一する勢力はなく、複数の部族からなる部族連合が乱立していたようです。

そこにナンブーディリは、ヒンドゥーの教義のみならず、先進的な農業技術や学術全般、そして新しい社会秩序(ナンブーディリを頂点とする身分制度、私権社会)を次第に広めていきました。王権の観念も転換し、古代的身分秩序であるヴァルナ制も導入され、グブタ朝支配下に成立した『ヒンドゥー教的社会秩序』が見られるようになっています。この北インドからの新しい統治技術の導入によって、6世紀以降の南インドの国家はそれまでの部族的編成を脱して大きく変わっています。

(ただし、新しいジャーティが数多く形成されてジャーティ制が成立し、領主制が全面的に展開するのは、13世紀初頭から15世紀中葉にいたる長い動乱期であり、その時期をへてはじめて南インドに中世社会が成立することになる)

ナンブーディリは、侵略に際してドラヴィダ人:ナヤールの<母系社会>を巧みに制度の中に組み入れた支配体制を確立していきます。ケーララ社会全体としてはナンブーディリを序列の頂点とする<父系社会>、その中でドラヴィダ人:ナヤールはそれまでの<母系社会>を維持し続けるという、<父系社会>と<母系社会>が共存する社会が形成されます。

婚姻様式においても、ナーヤルの伝統的な婚姻様式サンバダン婚(妻問い婚)により、ナンブーディリ<父系私有婚>とナーヤル<母系集団婚>の間に密接な関係を作り上げ両者が共存することになります。

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2008年04月08日

南インド ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~南インドの巨石文化

『インド南西部ドラヴィド人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィド人とは?』から時間がたってしまいましたが続きをお送りします。いよいよドラヴィド人:ナーヤルの母系社会の紹介・・・に行く前に、ちょっと寄り道して、南インドの先史時代を見てみます。

南インドの歴史はまだ不明な点が多いのですが、文献などの歴史資料以前の南インドを知るための手がかりとなるのが<巨石文化>です。今回も「ナーヤルの母系社会」自体は登場しませんが、ドラヴィダ人の置かれた外圧状況を見ていきたいと思います。


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2008年02月11日

南インド ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会~ドラヴィダ人とは?

m264 『インド南西部ナーヤル・カースト~婚姻様式とカースト制度』に引き続いて、インド南西部ケーララのドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会に迫りたいと思います。

ナーヤルの社会は全インドのヒンドゥ・カーストが父系制であるのに対して、(明確な資料が残っている範囲という条件は付きますが)例外的な『母系大家族制』でした。それも、ヒンドゥ・カースト社会から孤立していたわけではなく、ヒンドゥ・カースト社会の一員として母系社会を維持していました。しかし、この制度はイギリス支配下で大きく変化し、最終的にはインド独立後の1976年の「ケーララ合同家族制度(廃止)法」によって法的には消滅しています。

☆父系社会の中のナーヤル母系社会とはどんなものだったのか?なぜ、そのような社会になったのか?
☆20世紀まで続いたその母系大家族制が崩壊したのはなぜ?
☆そもそも、ドラヴィド人って?インダス文明との関係は?

などなど、ドラヴィダ人:ナーヤルの母系社会にはたくさんの「なんで?」が浮かんできます。これらの「なんで?」に少しでも迫ってみようと思っています。

それには、インドについて、これまでの一般的な「インド=アーリア文化」という一面的な捉え方ではなく、「北インド・アーリア文化」「南インド・ドラヴィダ文化」という切り口が手がかりになりそうです。まず、そもそもドラヴィダ人とはどんな人々なのか?その歴史をしらべて見ました。

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2008年01月10日

白川郷とドラヴィダに共通した長子のみ嫁取・次男以下妻問

白川郷の婚姻様式は、長子(アニ)のみ嫁取り、次男以下は妻問い(夜這い)なんですね。インド南西部ナーヤル・カーストとの共通性が気になりますね!?
今日は白川郷の補足をします。(赤松啓介『村落共同体と性的規範』より)

01763s.jpgまず次男以下の妻問い(夜這い)です。
大家族では、男も女も家を離れることを絶対に禁じていた。ツマドイは当人同士と周囲の黙認があるだけで、法的には何の規制もない。ただ彼らの間では「手ジルシ」を与えたが、内縁の契約ということだろう。しかし同じムラの男なら、手ジルシも出さないことがあったらしい。
  銀のかんざし 貰うた夜さり
    じつがあるなら 前掛けおくれ

「銀のかんざし」よりも「前掛け」が手ジルシになったのである。こうすると、だいたい生涯続いたようだが、ずいぶん放縦な者もいたらしい。しかし子供ができると人情つながりで、男の方からシンガイ稼ぎでいろいろと贈ったようである。
(写真は、世界遺産ひだ白川郷より。)

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2008年01月06日

インド南西部ナーヤル・カースト~婚姻様式とカースト制度

インド南西部ケーララ地方のドラヴィダ系ナーヤル・カーストにおいて、18世紀にみられた「タラヴァード」と呼ばれる母系集団を紹介します。

タラヴァードには、「ターリ儀礼」「サンバンダム(妻問い婚)」と呼ばれる二つの婚姻様式が並存していました。これらの婚姻制度はカースト制度という身分制度と密接に繋がった婚姻様式です。

●カースト制度(ウィキペディアより

ヒンドゥー教にまつわる身分制度である。紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部として作られた。カースト制度によって定められる個々の身分もカーストという。カースト制度は基本的にはバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分(ヴァルナ)に分けられているが、その中で更に細かく分類されている。

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta)である。 そこからインドにおける種々の社会集団の構造を表す言葉になった。インド以外の身分制度もカーストの名で紹介されることがある。

カースト間の移動は認められておらず、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト内で行われる。

ウィキペディアでも書かれているように、教科書では「結婚も同じカースト内で行われる」と習いましたが、タラヴァードの「ターリ儀礼」「サンバンダム(妻問い婚)」は、異なるカースト集団間での婚姻様式のようです。

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2007年10月28日

インド農村部の不妊対策~【複婚】

少子化が社会問題となる中、「赤ちゃんがほしい」と願っていても不妊に悩やむ夫婦が増えているといわれます。「産む、産まない」は、多くの場合、個人(あるいは夫婦)の判断に委ねられます。産みたくても産めない場合は、不妊症という病気とされ、これも個人の問題として考えられています。それが少子化ともあいまって様々さ葛藤を生んでいるように思います。

一方、共同体社会では不妊をどのように捉え、どんな対策をしているのでしょうか?

調べてみると、伝統的な共同体を残す「インド農村部」に【複婚】という一つの解決法があったので紹介します。かつての共同体社会では、出産・子育ては集団全体の課題として捉えられていましたが、これは共同体ならではの解決法の一つなのかも知れません。

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2007年05月01日

アジアにおける民族大移動が、アジア文化の元を創った。

スンダランドはアジアの人類の原点らしい。
人類発祥のアフリカから人類は移動して、当時は温暖で自然環境の豊かなスンダランドに流れ住んだらしい。そのスンダランドに住み始めた彼らがアジアの人種の起源だといわれている。
(クリックすると大きくなります↓)
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ここに定住した人類は、2回の大きな転機を迎えることで、アジア各地に更なる移動を強いられることになる。
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2007年02月15日

ダニ族は、狭い盆地で部族間闘争を2万年以上続けてきたらしい

m134 性器を包むペニスケース(ダニ語ではキオ)で有名なダニ族は、ニューギニア島中央のジャヤウイジャヤ山脈にあり、周りは3000m級の山に囲まれた幅15km、長さ60kmのバリエム盆地に住んでいる。

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ダニ族はペニス・ケース以外は素裸で鉄を知らない石器時代の人であった。石器と木材の道具だけであるにもかかわらず、ダニ族は農業に優れており耕作地は整然としている。 土地が肥えており、主要作物は根菜である。特にサツマイモの栽培に適していたこと、1600mの高地でマラリア蚊がいないことから、盆地の人口は当時で5万人(現在は10万人)で人口密度は驚くほど高い。

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2007年02月02日

ブータンの男女関係は、私達と違う?!

「国民総幸福量」で有名なブータンの婚姻制は,とても示唆に富んでいると思いました。 Rolling Eyes
 Cf)ジグメ・センゲ・ワンチュック国王が主張する、ブータンの国是とも言える概念が「国にとって大切なのはGNP(Gross National Product:国民総生産量)ではなく、GNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)である」という宣言。
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写真は「熟年ー旅の達人」より
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2007年01月28日

アンダマン諸島人は頻繁に泣く

狩猟採集民アンダマン諸島人 の続き。
原始社会は共同体社会ですが、それを支える日常行事や儀式として『踊り』があることはよく知られていますね。しかし『泣く』という行為も頻繁に行われていることは、あまり知られていないように思います。
アンダマン諸島人は、結婚式や死亡・埋葬に関する儀式においても、親しい友人や親戚が久しぶりに会ってもおいおいと泣きます。彼らは感情を表す(=心を開いて親愛の情を表す)ために、頻繁に涙を流すのである。

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2007年01月25日

狩猟採集民アンダマン諸島人の子供の家族間移籍

バンドは、人間社会のうちで最も単純な種類の社会統合の形式であり、いくつかの家族集団が集まってできた、成員数がせいぜい50~70人程度の小さな自立した地域集団である。旧石器時代以来の社会形式とされ、狩猟採集民の間に根強く残っている。
このような非常に原始的な形態を持つアンダマン諸島人を、婚姻・育児(特に子供の移籍という面白い習慣)を中心に紹介したいと思います。(エルマン・R・サーヴィス著『民族の世界』原書1958年より)

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2007年01月14日

チベットの子供の性教育と縁談のまとまり方

007.jpgチベットの一妻多夫婚―父系制の特殊形態― の続き。
彼らの生活と縁談について紹介したいと思います(川喜田二郎著『ネパール王国探検記』1957年より)。
7000メートルを超える雪山の間を刻んで流れる川の流域にあるチベット人村、カルチェ村に1ヶ月半住み込んでの調査記録です。
(写真はカルチェ村から見えるガネッシュ・ヒマール)

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2007年01月07日

チベットの一妻多夫婚 ―父系制の特殊形態―

チベット社会には多様な婚姻制が存在しているが(ナシ族やモソ人も大きくはチベット高原の諸部族)、ネパール山岳地帯に住むチベット族(日本ではシェルパ族が有名)の中には、世界的にも珍しい一妻多夫婚の種族が存在します。
(参考:川喜田二郎著『ネパール王国探検記』1957年)

チベット族は農耕・牧畜民で、チベットさらに中国とヒマラヤ以南を結ぶ商業民族でもある。
モンゴル遊牧民が父系一夫多妻婚であるのに対して、何故半農半牧の定住民チベット族は父系の一妻多夫婚になったのだろうか?

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2006年12月08日

北方の苗(ミャオ)族と南方の倭族2

北方の苗(ミャオ)族と南方の倭族1 の続き。
大阪教育大名誉教授の鳥越憲三郎氏によると、苗族は4500年前頃に長江中流域に南遷し、倭族を蹴散らして国を建てる。
そして、戦乱で大陸全土が乱れた戦国春秋時代、倭族は追われてついに日本にも辿り着くことになる。

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2006年10月30日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 5

moso2.jpg<母系社会を営むモソ人の食生活は自給自足である。僻地にあり豊かな土地でないとしても、それは集団としての当然のありようである。生活必需品を他集団とやり取りすること、交易に依存することはありえない。

(by石野)

食生活は自給自足できるものが多い。ただし、現在ワラビ村の主食は水稲であるが、ワラビ村の標高は米を栽培できるぎりぎりの高さであり、赤い米を栽培している。それも不作の年が多いようである。そもそもワラビ村で水稲栽培が始まったのは60年代以後である。それ以前の主食はトウモロコシであったという。なお、ワラビ村より少し標高の高いリジャズ村ではもう水稲栽培はできず、トウモロコシの飯やパンを主食にしている。ワラビ村には水田の数がそもそも少なく、半年ほどで食い尽くしてしまうため、ほんの少し標高の低い、永寧郷の村々の米を買うことが多い。また冬は野菜が取れないため、ほとんど食べないが、永寧の市場に出かけていって野菜を買ってくることもある。トウモモロコシは現在ほとんどが家畜の餌となっている。

モソ人の食生活

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2006年10月16日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 4

moso5.jpg性はいつから隠すべき、恥ずかしいものになってしまったのだろうか。 ワラビ村の温泉は、もともと性はおおらかであったことを物語っているし、一夫一婦制(一対婚)の浸透には男女の隔離と性幻想が必要であったことを暗示している。

(石野)


露天の男女混浴という温泉の評判は70年代には寧★にも聞こえ、県の役人も訪れるようになった。そうした中で、男女隔離の政策がある高官から出され、浴槽に塀が建てられたのだそうだ。一度はこの塀はモソ人の手によって壊されたが、再び78年には塀が建てられたのだそうだ。それはモソ人の意見も聞いたもので、1メートルに満たないものだったという。しかし、90年代には現在の立派な建物に建て直された。(上述の温泉の歴史については、中国人ジャーナリストによる紀行文(沈★著、譚佐強訳『西南秘境万里行』恒文社)によった。)現在の温泉は我々が普通に想像する銭湯のようなもの。ただし洗い場はない。湯船には20人ほどなら普通に入れるだろう。湯量は豊富で数週間ぶりの温泉は天国だが、皆が浴槽の中で洗剤で頭や体を洗うため、湯の取り入れ口付近にいたほうがいい。母系社会を営むモソ人の村へ

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2006年09月24日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 3

現在のモソ人の妻問い婚は、母系族外婚としての交差婚と婿入り婚が混在している。

アシャ別居婚は、昼はそれぞれの実家で生活し、夜になると男が女のもとを訪れる。
アシャ同居婚の場合は、これは妻問い関係にある男が女の家に住み、仕事にも携わる。

別居の場合でも、仕事が忙しければ女の家に数日間住み込んで仕事をすることもあるので、その間には大きな隔たりはないのかも知れない。

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2006年09月13日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 2

一夫一婦制というのは、常にお上からの強制という形で押し付けられる。日本においてもそうであったし、モソ人と漢民族との関係においても同じである。

>1983年末から84年初にかけて、陳烈(雲南省文連)の行った調査(『最後的母系家園』雲南人民出版社・1999年10月)によると、永寧郷の20自然村の全527戸において、総人口3,725人、うち男1,847人、女1,878人であった。女性のうち、成年女子(16歳以上)は1,178人で、全女性の62.7%。成年女子のうち、出産経験のある者が745人で、成年女子の63.24%。出産経験のある者のうち、アシャ婚(別居、同居)による者が393人で、出産経験者の52.75%であったという。また、全527戸のうち、純母系家庭171戸(32.4%)、双系併存家庭144戸(27.6%)、父系一夫一婦制家庭212戸(40%)であったという。(母系社会を営むモソ人の村へ)

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2006年09月11日

「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 1

雲南省の西北、四川省との省境に瀘沽湖という湖がある。この湖の周囲にモソ人と呼ばれる人々が住んでいる。母系社会を営む人々として、文化人類学的にも、観光地としても、よく知られた存在となっている。

>観光客の目当ては、母系社会を維持し、妻問いをしている人々への興味である。それに応えて、村人たちも「摩梭人走婚」(モソ人は妻問い)を観光客に積極的に説明してくれる。ある男性が夜道でも懐中電灯なしにすたすた歩いていたので、それを褒めると、彼は始めて我々に会ったにもかかわらず、「我々モソ人は走婚(妻問い)で、毎晩、女のもとに通っているから、道は全て覚えている」などと話しはじめた。(母系社会を営むモソ人の村へ)

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2006年09月10日

自由恋愛の国アメリカと、母系社会のモソ人

初投稿になります☆家島です。
上は中国奥地、チベットに住むモソ人の民族衣装です♪
大学では民俗学の授業は
ほとんど寝ていたけれどあまり熱心には学ばなかったけれど、
社会人になってから逆に興味が出てきたりしています。
(よくありますよね?そういうことって。)

さて今回のモソ人の話ですが、
何が興味深いかって未だに「母系社会」が続いているという事!
(要するに、夜這・妻問いが続いてる)
うちの故郷は日本の果て滋賀県なんですが、
そこでは妻問いが昭和40年代まで続いていた
(つまり聞き取り調査なんかもできちゃう)わけですが、
今でもまだそういった文化を残してるってのはすごい。

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