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2006年10月26日

中国最古の城塞都市はどこか?

世界最古の城塞都市はメソポタミアの5500年前とされている。(「5500年前ごろ城壁が出現」より)
では中国ではどうか?
長江中流域の城頭山遺跡から発見された6300年前の城壁が最古だが、これが城塞都市なら、メソポタミアより800年も早く、さらに西アジアで掠奪闘争が勃発した6000年前頃よりも前に長江流域で掠奪闘争が開始されたことになる。
果たしてそうなのだろうか?

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安田喜憲氏の「長江文明探求」(H9~13年研究)では、以下のように紹介している。

湖南省城頭山遺跡からは、6300年前の直径360メートルにおよぶ円形の城壁の内側に6000年前の中国最古の祭壇が発見された。さらに王宮と神殿そして焼成レンガを敷き詰めた基壇や道路が発見された。寄生虫卵や昆虫化石の分析による汚染の程度から、この城頭山遺跡には最大2000人が住んでいたと見なされる。木材分析の結果からこの遺跡に暮らしていた人々は、現在の雲南省や貴州省に住みフウの木を崇拝する少数民族の苗(ミャオ)族であったことが明らかとなった。
長江文明の崩壊は、4200年前の気候の寒冷化により、北方から馬と金属器を持った畑作牧畜民が南下したことによってもたらされた。以来、司馬遷の史記に三苗(サンミャオ)と呼ばれた苗族たちは南下し、雲南省や貴州省へと逃れたのである。
梅原 猛/安田喜憲 著『長江文明の探究

長江流域にある城塞都市としては、上流域の龍馬古城遺跡が4500年前、中流域の石家河遺跡および下流域の良渚遺跡が5000~4500年前なので、城頭山遺跡(遺跡としては7000~4000年前に存在)の城壁が6300年前なら、どうして掠奪が周りにも及ばなかったのか、1000年以上も後になるのか疑問が残る。
掠奪に備えた城塞ではなく、祭礼も行われる灌漑用水の拠点だった可能性が高いと思われる。
(注)長江上流域の三星堆遺跡が7000年前という紹介もあるが、どうやら3500年前らしい(「仮面王国・三星堆」より)。
長江流域の稲作の古さや豊かさに目を奪われて、掠奪闘争→都市国家も黄河流域より先なのでは?と思われがちだが、遊牧民は黄河流域の北西・モンゴル高原に居るわけで、まずは黄河流域に攻め入るのが自然と考えられる。また、その後の歴史も常に、遊牧民(北方モンゴロイド)→黄河の畑作牧畜民(漢民族=北方系)→長江の稲作漁労民(南方モンゴロイド)の掠奪・支配というように、玉突き的に広がっていったことから、中国最古の城塞都市は黄河流域と考えられる。
黄河文明の源流か「中国最古の城塞」より。

河南省・西山遺跡の全容 約5300年―4700年前の中国最古といわれる城塞遺跡
nisiyama1.gif中国河南省鄭州市内の黄河中流沿いにある西山遺跡の発掘調査を進めてきた同省文物考古研究所は、約5300年―4700年前の中国最古といわれる城塞遺跡の全容を明らかにした。同研究所は黄河文明が栄えた同省の殷遺跡より1千数百干さかのぼる大幅穫な都市遺構と見ている。西山遺跡の発掘調査は、同遺跡から出土した新石器時代の仰韶(ぎょうしょう)文化晩期の土器などを手がかりに1993年から96春まで、同研究所と中国国家文物局の共同で行われた。同文物局によると、城塞遺跡は長江(揚子江)中流域の湖北省・石家河遺跡(約4千500年前)と同省・屈家嶺遺跡(4千6百-4千年前)が最古とされていたが、西山遺跡はさらに数百年さかのぼるという。最近、「長江文明学術調査団」(総団長・梅原猛国際日本文化研究センター顧問)が基壇を発掘して話題になった長江流域の四川省龍馬古城遺跡(約4千5百年前)よりも古いことになる。
『版築』を確認
nisiyama4.gif河南省文物考古研究所によると、西山遺跡は鄭州市の中心から北へ約23kmの海抜110m台地にある。遺跡全体は約10万平方m、現存する都市遺構は円に近い八角形状で1万9千平方mに及ぶ。周囲を取り巻く城壁は幅5-8m、高さ約3mで、延長約300mの基礎部分が残っていた。城壁外側の壕溝(環壕)は幅7-11m、深さ4m。北門、西門跡も見つかり、外敵に傭えた本格的な城塞を形成していたとみられる。城壁は板で組んだ四角い枠で土を挟み棒で土を突き固めていく「版築」(はんちく)と呼ばれる高度な建築技術が使われていたことが判明。版築による城塞は石家河遺跡跡には見られず、最古の例とされる。城壁構造時の“定礎式”の跡から出土した甕棺(かめかん)には子供を埋葬。殺されたり生き埋めにされたと見られる人骨10数体や腰から下を切られた牛の骨なども出土し、祭祀が行われていた可能性がある。
一夫一婦制
nisiyama3.gif城壁内で住居跡200余りのほか、北城壁の内側からは氏族共同墓地と見られる228基が出土。男女一組や成人男子と子供の各合葬があり、既に一夫一婦制度に移っていたとの指摘もある。同遺跡は同省に点在しているほぼ同時代の遺跡の中で唯一堅固な城塞都市形態を備え、黄河文明の源流であった可能性が高い。発掘に当たった張玉石・同省文物考古研究員は「かなり成熟した都市が栄えていた可能性があり、考古学史上価値が高い」と話す。許順湛・元同省博物館長は「史記」に登場する五帝の初代の「黄帝」の城跡と主張。黄帝は中国の伝説上の帝王とされる堯、舜に先立つ、中華民族のルーツとされる帝王で、話題を呼んでいる。
黄景略・中国国家文物局考古隊専門組織長の話
西山遺跡は中国の歴史上、最古の「古城遺跡」と認定した。四川省成都で最近見つかった龍馬古城遺跡(約4500年前)よりも数百年以上古い。7000-8000年前との説もある湖南省・彭(城?)頭山遺跡は盛り土状の原始的な構造なので古城遺跡とは認めない。西山遺跡は世界史上、エジプトのファラオ王朝時代にほば相当するが、居住人口や文化レベルなどは今後の分析に待ちたい。

黄河流域の西山遺跡=城塞都市は、父系制へ転換したモンゴル遊牧民の侵略が、5500~5000年前頃に繰り返された形跡ではないだろうか。黄帝伝説の時代(5000~4000年前)は実在したと考えられる。そして侵略は次第に長江流域へと南下していく。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡 

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