2006年12月07日
『トツグ、マク、クナグ』から見えてくるもの
「日本婚姻史」(中山太郎)という本を読み始めました。(詳しくはこちらをどうぞ)
第一章「共同婚」の中の、第一節「共同婚を偲ばせる二三の古語」の中から、“とつぐ、まく、くなぐという古語の内容”がなかなか興味深かったので、ご紹介します。
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著者の中山太郎氏は、
共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)時代が在ったか否か。換言すれば我国に女子共有の時代が在ったか否か。
という問題意識から古語を調べ、その存在を証明しています。ただし、この本が書かれた昭和初期にも、学者たちの抵抗があったらしく、
土俗を軽視した従来の学者は悉く否定説を採っている。就中、かかる事象の存在を国家の威厳でも傷けるものと誤解していた所謂国学者流の人々や、又は支那の儒教かぶれした学者達は、恰も臭いものに蓋をするが如き態度で、殆ど故意とも思われるまでに此の事象を或は否定し或は黙殺したのである。
と記しています。
さて、共同婚(⇒兄妹婚や総遇婚を指すようです)の存在の証拠の一部として、次のような内容が記されています。
★琉球石垣島の皿濱地方では、女にはプトモツ(夫を持つ)という結婚を表す言葉があるが、男には全く無く、露骨に「交合」という言葉を使っている。それと同じ用語例があり、それが「トツグ、マク、クナグ」の三語である。
★現在では、それぞれ「嫁ぐ、覔く、婚ぐ」という字を当てるが、古くはどれも「交合」の意味に用いられた。
その具体的事例を、少し長くなりますが引用しますね
トツグの語義は橘守部によれば『とつぐは陰接なり』と断定され。
宇都保物語(蔵開上)に
そのむすめ、とつぎ時になり給しかば、みかどをさして、人かよはざでありしに、天皇、みこ、みや、とのばらのみ、よばひのつかひはあけたてはならめぐりてあれど、こともえつけでぞ侍りし云々。
これ等の例証から見るも、トツグの原義は交合であって、これが嫁娶の意に用いられるようになったのは、後世の第二義的の分化であることが知られるのである。
マクの語義に就いては『倭訓栞』に『日本紀に覔をよめり、古事記に求をよみ眞來と書けり、もとむる義なり云々。女を犯す事をまくといふも妻をまくより出たるなり云々。伊豫にてはまぐといふ、伊勢にてはまけなといふも同語なるべし』とあるが、これは谷川士清にも似合わぬことで、前に述べたマクの国語に覔または求の感じを当てたために誤られた解釈であって、古くは単なる交合の意であったことは、伊豫や伊勢の用語が示している如くで、現に琉球の宮古島や大隈の徳ノ島では交合の意にマクの語を使用している。
クナグの語義にあっては、諸冊二尊に合交(まぐわい)の事を教えた鶺鴒の和名を、古く『にはくなぶり』とも『とつぎをしへとり』とも言うた一事から見るも。この語が交合の意味を有していたことは明白である
然して以上列挙したトツグ、マク、クナグ等の言語を使用した古代人の思想は、交合することが直ちに婚姻であること、猶お琉球の皿濱地方におけると同じであった。反言すれば、婚姻とは即ち交合の意に外ならぬのであった。交合を『見る』とも『逢ふ』とも言い、婚姻を『よばふ』と言うようになったのは、この次の時代であって、多少とも婚姻に式礼を加えるようになってからの発明である。
霊の結合に重きを置かなかった古代にあっては、肉の結合が直ちに婚姻の総てであった。然もそれを最も露骨に最も勇敢に実行したのが私共の遠い祖先だちである。
一対婚が実は日本では数十年の歴史しかないことを、社会人になってから初めて知った
のですが、そういう事実は、日本の古典からも読み取れるんですね。
古文の授業で、「逢う=結婚」と習って、
って感じだったのですが、もともと「交合」であったと考えればスッキリします。
著者は、古代は「霊の結合に重きを置かなかった」と書いていますが、そうではなくて、その時代は「霊の結合」と「肉の結合」は一体で、区別する必要なんて無かったんだと思います
- by まりも
- at 23:13



宇都保物語(蔵開上)に
これ等の例証から見るも、
comments
「日本婚姻史」貴重な文献ですね!
私もブログhttp://www.katei-x.net/blog/で家族の形などについての追究をしていますが、日本の性にまつわる事実に根ざした情報ってネット上を探索しても殆ど出てこないので、この様な紹介はとても役に立ちます。
田舎育ちのオヤジなどに話を聞くと、家系図がややこしくて書けない位、いろ~んな繋がりが地元では当り前だったようです。
「交合」って言葉、なんかいいですね。
かわいさん、コメントありがとうございます♪
この本は絶版になっているらしく、図書館から借りてきて読んでます。個人主義が浸透していない時代に書かれたものとして、すっごく貴重だと思います。今後も中身を紹介していきたいと思いますので、よろしくお願いします~☆
「霊の結合に重きを置かなかった古代にあっては…」のところがどうも気になります。
筆者は何故そう考えたのだろうか?
分け隔てのない「肉の結合」はみだらで“動物”的なので、「霊の結合」がなかった、と考えたんだろうか?
しかし少し考えれば分かると思うが、分け隔てなく「肉の結合」ができるということは、好き嫌いや警戒心(つまり自我)を溶解させ、心を開かなければできないわけで、これこそ霊の結合だと思うが…。
筆者自身、霊の結合=“高貴な”恋愛感情とする西欧かぶれの知識人かも…。
もしそうでない理由が述べられていたら、教えてください。
ちょっと辛口の感想でした。
大峰さん、コメントありがとうございます♪
私も、その「肉の結合」と「霊の結合」は、引っかかってるんです。ただ、基本的に昔の文献や口承を丁寧に紐解くのが著者のスタイルであることや、共婚を否定する学者たちと一定争う姿勢を見せているところなど、今のところ、ゴリゴリの知識人ではない感じがしています。
これからも読みすすめて、もっと追求したいと思いますので、お楽しみにお待ち下さい☆
そうですね。深読みだったかも。
改めて紹介文を拝見しましたが労作ですね。↓
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132490
是非シリーズ化してください。期待してま~す。