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2007年06月14日

日本に「男女交際」は無かった?!

現代日本の「恋愛至上主義」は、ほんの50年前では珍しい考えでした。
私の両親が結婚した時代(戦後の1950年ごろ)は、結婚と言えば親が決めた相手か、見合い結婚。私の両親は、一目見てその後は結婚式だったそうです。
それがあっという間(50年間)に、男女関係はいわゆる昔の少女漫画のような、胸が時めく夢のような恋愛 をして、恋焦がれた相手と恋愛時代 を経た上で結婚に至るという夢を抱くようになりました。そして結婚式は人生最大のイベントで、その後の結婚旅行は海外へと、お金の掛かる恋愛が市場社会によってさらに加速されてしまったようです。そして、日本では、恋愛という過程を経てから結婚すると言う婚姻制度(≒「恋愛至上主義」)に変わってしまいました。
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明治以前は「夜這い文化」と言われるように、性におおらかな日本文化でした。何故急変したのでしょうか。
明治維新以降の日本は、西洋近代思想が輸入されたことによって、これまでの性風俗を「野蛮なもの」として排除する動きが当時の統合階級にあった。そして、土着の性風俗は古くて遅れたものとして規制された潰されてしまったようです。
その役割を果たして一人が福沢諭吉です。
引用:男女交際進化論「情交」か「肉交」か 中村隆文著

『明治のはじめ頃、男子学生の恋の相手はふたつあった。ひとつは遊郭や盛り場で働く女性で、もうひとつは同じ男子学生。前者を相手にすると「軟派」、後者なら「硬派」と呼ばれた。意外にも「硬派」は本来は同性愛を志向する男性を指すことばだったのである。
女子学生というものが少なかったこともあるが、成人してお見合い結婚することが当然の時代では、今でいう男女交際という概念自体が存在していなかったのだ。
「男女交際」という言葉は福沢諭吉らによってつくられた。福沢は英語の”Society”を「交際」と訳して日本に紹介した人物でもある。男尊女卑の当時の環境を欧米に対して遅れたものと考え、日本を男女同権につくりかえる上で、必要な制度として男女交際は生まれた。』

それ以降の文学者の多くが「恋愛」「自由」をテーマに、欧米文化を目標とする輝く文化として紹介して大衆に支持されていきます。そして「豊かさ」獲得を目標とする事で活力的なエネルギーを出してきたのが昭和の時代です。たった50~60年前です。
50~60年前に、日本の「おおらかな性文化」を捨てて、この「恋愛文化」に移行したことが、本当に正しかったのかは、現代の男女関係を見ると大いに疑問です。

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江戸時代の商人、職人の婚姻制」、気になるところですね。
参考になりそうなサイトがありました。
「歴史おもしろ雑学」の「大江戸編」(http://bungetsu.obunko.com/)に、江戸の町・商売・庶民の生活などいろいろと紹介されています。
例えば、
>☆吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡神社の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。<(同サイト「遊女編」より)
「吉原」の起源って、江戸時代初期に遡るのですね。

  • echo
  • 2007年7月14日 13:29

ミュウミュウ 財布 40代

共同体社会と人類婚姻史 | 江戸時代の士農工商、各々の婚姻制はどうだったんだろう?

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