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2007年07月15日

日本婚姻史8 純婿取婚~平安(中)~

日本婚姻史7 前婿取婚~飛鳥奈良平安(初)~のつづき、純婿取婚です。
母系婿取婚は、アメリカ大陸や南アジア~太平洋地域に広く見られ、チンパンジー以外のサルもメス残留・オス移籍の母系制なので、普遍性の高い形態かもしれません。
一 純婿取婚というもの
ムコトリ婚のおこり
婿取婚は、妻問婚で通ってきた男を、妻方の生活体に組み入れようとするところから起こるもので、男の妻方への住みの固定化といえる。婿取婚は、妻屋側からの婿への労働力の需要によるとされ、荘園制社会では、生産力の増大とともに、男の労働力が要求された。長者層では、その地域の各戸の小世帯を崩壊させて自家の下人化したり、自家の娘や下人らの娘に通ってくる婿を住みつかせたと考えられる。
注:9~12世紀の平安時代の特徴は、中央における藤原摂関家を中心とした貴族政治と、その社会的基盤である荘園制社会とそこでの武士団の形成。中央と地方の動向は、密接に関連した表裏関係にあった。

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純婿取婚の原則
純婿取婚の期間は、ほぼ摂関期(10世紀後半)ごろから白河院政期(12世紀前半)ごろまでとされ、その原則は、
(1)妻方の父が表面に立ち、従来とは逆に父から婿に求婚する
(2)一妻(嫡妻的な妻)と生涯同居の傾向がめばえかける。
(3)夫婦世帯は、前半は妻方両親、後半は夫婦相互の両親組織が後見する。ただしその背後には氏族的遺制がその範囲を狭めながら厳存し、夫婦別産制を支持し、いぜん離合の不定な原始婚、対偶婚的な夜離れ床去りの段階にある夫婦関係を補佐している。
(4)いぜんカマド禁忌(=母系同火の原理)があるので、息子は成年に達すれば他家に婿とられて去り、娘のみ家にとどまって婿取りをして外孫を生み育てる。この娘夫婦がそのまた娘に婿を取る頃には、両親は家をゆずって他へ去ることが原則である。氏姓は完全に父系であるが、家の性格は母系型であって、母カマドから娘カマドが派生すると認識されている。
純婿取婚の場
純婿取婚は、都市では貴族の寝殿造り、地方では(郷戸的集落が崩壊し)長者と下人からなる新集落が婚姻の場となった。もちろん都市や地方の下民層にも広く見られた。
長者館は貴族式寝殿造りを受容し、それに族長性(祭祀、事務、防備)や名主性(農事関係の仕事場や倉庫や下人小屋)を加味したもので、鎌倉頃になれば近くに山城をもつまでに武家化していった。この段階ではまだ家父長制的奴隷支配を貫徹しておらず、婚姻制も、例えば娘は婿取婚だが、息子はいぜん通い式といったように雑多な婚姻形態を併存する場合が多かった。
しかし一方で、階層分化の結果として、召上、進上、略奪等の例外婚が長者層に起こり、これらが室町以後の嫁取婚の奴隷的性格に対して、一種萌芽的な性格を強くもつことにもなった。
二 純婿取婚の諸問題
原始婚的多妻
しだいに一夫多妻へと偏向しつつあるが、なお多夫多妻の原則は失われておらず、妻の再婚、姦通も多夫婚の一種とみなされる。また多妻群の地位にもほとんど甲乙がない。いずれも住居や住居つき財産か、職業(都市では女房づとめ、田舎では田づくり、養蚕、賃機、荷主稼業など)による自活者で、その背後に氏族組織も遺存しており、家父長制の妻やメカケたちのように追い出されれば路頭に迷う依存者ではない。
離婚・再婚・重婚・姦通
この時代の女性の婚姻には、同時的多夫婚(重婚)もあるが、一般には継次的多夫婚(再婚)が多い。ただ前夫が死なない場合は、同時的多夫とほとんど区別が付けられない。当時は無宣告離婚だから、離婚なのか一時の中断なのか分からないのである。従って、女が他の求婚を受け入れれば、再婚とも重婚とも姦通ともつかないものになるが、当時はこの曖昧さこそが自然なあり方だった。
長者家のむことり
長者家は、大化前は族長だった国造、県主、稲置等の系統なり伝統なりを、直接的・間接的に引く緒家で、大化後は国・郡の役人、荘司、田堵、名主等雑多な身分をもち、中央公家とたくみに関連を保ちながら、将来それらを覆し、純封建的領主的権力(武力)をもつに至る。長者家が公家や武将の旅泊所であったことから、婿取りし(俗にタネモラヒという)、婿の出自を名乗ることで勢力拡大が意図された。
夫婦別産別墓と家の女系伝領
氏族制は崩壊しているとはいえ、その遺制は根強いものがあった。加えて基部をなす「家」は、父系的に未熟な婿取りの母系型の家であったから、父系の氏族と母系型の家とはあらゆる点で矛盾衝突しており、いざ実践の場合には統一ができない。だから系譜観念的には父系氏族に偏り(氏産制とか氏の共同墓地、子の氏族的帰属など)、日常的には母系型に偏るきらいがあった(住居の女系伝領とか、子の家族的帰属、外祖父による産児への扶養義務など)。
女性の財産権は男子と平等で、娘には住居つきの財産を残すのが一般的傾向であった(=家の女系伝領)。女性の財産には氏産的拘束があったので、異族との結婚の場合は氏外逸脱が警戒されねばならなかった。このように夫婦別産の規制はきびしく、夫とは別個に荘園や本所や領家である妻もあったし、鎌倉期でも夫に関係なく地頭や名主である妻もあった。そして夫とは別個に政所や家司をもった。
なおこの頃、氏族名とは別に、居所と関連する呼び名である家号(のちに名字となる)がめばえていた。ただ家号は父系的には伝わらず、家の伝領と同様母系的に舅から婿に伝わる。のちの鎌倉期前後に父系名字の歴代伝領をなしえてはじめて、名字の固定化、名字族が発現するのである。
読んでもらってありがとう(^_^)。応援よろしく by岡

次回は経営所婿取婚で、徐々に父系原理が台頭してきます。お楽しみに

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