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2007年08月05日

「いのち」~共同体社会の生命観(青森では)

>“「いのち」は個体の枠を超えて他の個体とは無限に関連していて、「いのち」は決して個体に閉じ込められるものではない”という生命観を共有する仲間の存在がその基盤となっているのだと思います。(ヘヤー・インディアンにおける「いのち」~共同体社会の生命観 より)
この生命観は、共同体社会には共通するものなのかもしれません。
青森市在住の民族研究者、田中忠三郎さんの記事で青森の事例を紹介したいと思います。
縄文の世界・生活と文化
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《抜粋》
青森県の古い習俗の中に、幼くして亡くなった子供に、今度生まれて来る時には丈夫になって生まれて来なさいと、石を握らせて葬ることがある。
石のように固い体という意味である。
また干物であるイワシの煮干しや焼干しを口にくわえさせたり、傍において葬ることもある。
イワシが臭いを出すので、魔物が寄りつかないということである。
また懐妊した主婦が出産する時、今では病院の産婦人科、産科医院であるが、産科医院のない頃、大正、昭和初期には、産婆さんが介助した。
それ以前は、集落の中の経験豊富なおばあさんが介在していた。
その方をトリアゲババとかテンニャクババと呼んでいた。
出産の時、トリアゲバアサンが産婦に聞くのである。
「このワラシ、戻すか戻さないか?」と、主婦が子供を生み育てたい時は「戻さネでケレ」とバアサンに言うが、家庭の事情とかで子供を育てられない時には「このワラシ、戻してケレ」と言うのである。
戻すと言うことは産婦自らの腹に戻すことであるが、それは死を意味するものであった。
トリアゲババは「戻してケレ」と言う主婦の言葉によって、生まれて来た嬰児を自分の膝で圧死させてしまうのである。
それこそ嬰児殺しである。
だが殺したのでない、自分の腹の中に帰したのである。

嬰児の遺体は誰に気づかれることなく、馬小屋の隅や庭の隅に埋められてしまう。
遺体が早く腐植すると早く体内に戻るということで、馬に踏ませてしまうのである。
馬小屋の隅には「えな(胞衣)」も埋めることがある。
主婦が生み育てたくても、介添えするバアサンが生まれた子供を見て、この子供は育てられぬ程の障害を持っているとか、死産の場合には、主婦にこう言うのである。
「オガや、オメ雀の子生んでしまったので、山に帰すど。」
そして嬰児を圧死させてしまうこともあった。
野良で働く主婦は、囀(さえず)りながら近くに寄って来る雀を見て、これが我が子だから私の傍へ来るのだと、雀の子を生んだ不憫さと哀れさを感じるのであった。
縄文時代は遥か数千年前である。
だが近年までも幼児の死は悲しく哀れである。
再び生まれ変わって来てくれと言う願いは同じである。
三内丸山の人々、主婦が自ら生んだ幼児の遺体を土器に入れたのは、土器が吾が腹の中と想定して葬ったのではないだろうか。
子供の死は母親にとって耐え難い悲しみである。
自らの体内に戻して、再び生まれて来て欲しいという切実な心情が、そこにはある。
しかし成人の死、老いの死はどう受けとめていたのであろう。
青森の習俗で「死ねば山に行く」と言われている。
そして祖霊が山に宿るとされている。
また、こんな言葉も残っている。
「初物食う時は笑え」という言葉である。
祖先が山に帰り、季節ごとに、里にいる娘や息子、孫達のために食料となって帰って来ると言うのである。

ある人は山菜のワラビやゼンマイになったり、ウサギや鹿になったりして、人間の役に立つ姿に変わっている。
初物が採れたら先祖の化身であり、逢いに来たのであるから笑って迎えよと言うのである。
そして仏前にその初物を供えて感謝するのである。
山は四季折々、人々の食べ物を授けてくれる所であり、豊穣の山でもあった。
人々は天の極楽、地獄の世界も知らないし、阿弥陀如来に導かれ天国へ行くことも知らない。
仏教の普及されぬ時代の信仰を待ち続けていたのである。
仏教が日本に入って来たのは五世紀、今から1500年位前である。
縄文時代はその遥か遠い時代である。
縄文時代の人々に想いを馳せると、その場は自然の神に感謝し、生への願いの心を表わす場であったと思う。
人が死ぬことは悲しい。
でも、それはひとときの眠りであり、再び生命が蘇って来ると信じ、その願いを込めた祈りの場であった。
春に樹木が芽を出し、夏には青葉をつけ、秋には実がなり、葉を落とし、冬には雪に埋れる。
死は冬であったが、春を待ちわびるように、生命の誕生を待った。
死は哀れで悲しいが、生まれ変わることを信じていた。

縄文時代の人々の死への恐れとおののきが、現代の私達にも聞こえて来る。
人間の必然の理、「死」は、生への願望である。
《抜粋ここまで》
現実を仮の姿として、頭の中だけに「あの世」を措定するというのは、いかにも苦しい頭の使い方なのだと思います。
個体の「生命」は、姿を変えて、「生まれ変わる」。
現実をありのまま受け入れた生命観が、日本人にも受け継がれていると思います。

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低消費文化という視点面白いと思いました。
リサイクル社会とは現実の圧力からリサイクルしなければならなかったこととは思いますが、それ以前に無駄な消費はしないという欠乏の低さがベースにあるというのは見逃せない点であると感じました。
ちなみに私も「宵越の金は持たない」派です。単なる浪費家とも言われています。でも、不安はありません。みんなの意識はどうなんでしょうか?特に男性陣は?

  • 河内のおやじ
  • 2007年9月15日 10:18

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