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2007年05月13日

日本婚姻史4 群婚の崩壊

日本婚姻史3 族外婚 の続き。群婚(族外婚)の崩壊と妻問婚前夜です。
自然物採取から農耕段階へ進むと、集団婚であることを特徴とする族外婚から、母系制的対偶婚(個別婚)への道をひらきます。
紀元前2、3世紀の頃に移入された水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落体から部族連合体への道がひらけはじめた。前2世紀の「漢書」には「楽浪海中有倭人、分為百余国」などとあり、部族(氏族の集まったもの)が百あまり、まだ部族連合も結成されずにばらばらに散在していた。
3世紀ごろになると邪馬台国が出現し、30余国の部族連合がみられると「魏志」にいう。このような段階でもなおクナド婚は威力を発揮し、部族連合の一つの動力となったが、その方式に特記すべき変革がおこった。それは神前集団婚から神前婚約がはじまり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

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(筆者注:中国春秋・戦国時代の戦乱を逃れて江南人が渡来した。この渡来人=弥生人が、水稲稲作と私有意識→戦闘と妻問婚を持ち込んだ。)
1)神前婚約については、「常陸風土記」の筑波山の条に、「俗言にいう。筑波の峯の会に、ツマドヒノモノを得ざれば、児女とせず」とあり、これは筑波山のカガヒに、婚約の贈り物がもらえないような女は、女として値打ちがないという意味。
2)「武烈伝」には、影姫という女がツバイチの市場の歌垣で求婚して欲しいと男に言っている記事があるが、歌垣での婚約を正式としたことが分かろう。なお、この影姫の場合、求婚の男が二人いたので、闘歌によって解決したことがみえている。求婚者間の闘歌は当の女と会衆との面前で勝敗が決せられるが、それが同時に神の裁きの意味にもなったであろう。(ラオスでもみられる。)
3)遠江国榛原郡川根村とその国境の駿河国志太郡伊久身村では、毎年旧正月7日から8日の朝にかけて、若い男女が入会山にのぼってヒヨドリ踊りという歌垣式乱舞をするが、そのとき好きな相手があれば婚約が成立し、神聖な婚約とされて尊重された。両部落にとってはいわば神前婚約クラブであった。

妻問形態の個別婚が新しい時代の正式の婚姻制として表面化してくるが、群婚原理もまだ容易に断ち切れず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。A男がB女に通うと、B女の姉妹が連帯的にA男の副妻になるのである。
もっと後代では、結婚式の前夜に婿の仲間が花嫁をおかしたり、嫁の仲間が花婿と同衾する俗もあるという。
1)ミクロネシアでは、男が旅行に行くと、その妻はその男の兄弟に託される慣習がある。(中川善之助氏による)
2)中央アフリカでは、同じ女と関係のあった男同士は兄弟となって経済的にも保障し合うという。(桂ユキ子『中央アフリカ見聞録』)
3)ヒマラヤ山麓の村では、チベット人の姉妹が隣村の兄弟と共婚関係にあり、隣村の兄弟の家には姉が行き、実家の妹には兄弟が通い住んで、両方に子が生まれ、公民権は両方にあるといった親族制がみられたという。(川喜田二郎『鳥葬の国』)

これらの俗は、群婚崩壊期の所産ないし遺習であって、原始共同体における共食共婚の連帯性がいかに根強いかを考えさせるに足る資料である。
(筆者注:過去報告されたチベットブータンの一夫多妻や一妻多夫は、群婚原理の残存だとすればスッキリします。兄弟姉妹であることが崩れて、男が複数の女のところへ妻問うor女が複数の男を妻問わせる、というように変質していくことも容易に想像できます。)
読んでもらってありがとう(^_^) by岡  
次回はいよいよ妻問婚のはじまりです。お楽しみに

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